休日出勤の誘惑を断ち切り、日曜日を満喫していたところ、
部屋の隅から聞きなれない音がしました。
カサカサ・・・
カサカサ・・・
嫌な予感がして目をやると、そこには壁を這いまわる明らかなGの姿が。
家賃2万5千円のおんぼろアパートでは、平均して年1~2回はGと遭遇します。
サイズは小さめ、やや茶色がかった色から見ると、比較的若い個体とみられます。
筆者は大きなため息をつくと、慣れた手つきでGを部屋の角へ追い込み、ティッシュペーパーでつつんで殺害し、ごみ箱へ投げ入れました。
追悼・G
Gは何か悪いことをしたのでしょうか?
Gは存在そのものが悪だったから、殺されたのでしょうか?
いいえ。
そこには善も悪も、罪も罰もありません。
ただ快適な住みかと食料が欲しいというGの望みと、つつましくも清潔な部屋に住みたいという筆者の望みが対立し、
そしてたまたまホモ・サピエンスである筆者の方がGよりも強かったというだけの話です。
善と悪とは、思ったより不確かなものです。
Gからすれば筆者は悪でしょう。
しかしホモ・サピエンスを殺せば死刑もしくは無期懲役になるのに対し、Gを殺しても罪に問われることはありません。
罪と罰
ホモ・サピエンスの社会においても、
強い個体、あるいは強い集団にとって利益があることが「善」、その反対が「悪」とされます。
そして善行を取った個体には報酬が、悪行を犯した個体には罰が与えられます。
しかし、考えてみればなぜ自分以外の人が、自分の行動について善悪を判断するのでしょうか?
神様を信じているなら、自分の外に善悪の基準を持つことができます。
そうでないなら、なぜほかの人のいうことが正しく、自分が間違っているということがわかるのでしょうか?
例えば現代日本社会では、無職は悪とみなされています。
日本国憲法にはばっちり勤労の義務が定められており、
住所不定無職は罪にあたります。
しかし無職は、何か悪いことをしたのでしょうか?
筆者のようななまけものはいったんおいておくとして、
世の中にいる無職だって、もし健康で、やりがいがあり、高級で社会的地位も高く、休みもしっかりとれて、ストレスの少ない仕事があれば働きたいのではないでしょうか?
生活保護受給者は、何か悪いことをしたのでしょうか?
たしかに自分は何も生産せずに消費だけしているというのは、他人の食い扶持を奪っていることになります。
しかし、世の中には生まれつき労働に向いていない人もたくさんいます。
大企業で働くと、世の中には有能で、健康で、高学歴で、性格も容姿もよく、おまけに実家がお金持ちな人ばかりのように思えます。
一方治安が終了しているアルバイトで働くと、失礼ながら「どう考えてもこの人にサラリーマンは無理だな」というひとにちらほら出会います。
無能で、病気がちで、低学歴で、容姿が悪く、実家が貧乏なのはその人の罪なのでしょうか?
筆者は、何か悪いことをしたのでしょうか?
子供のころ、かけっこでいつもびりだったのは筆者の責任なのでしょうか?
いまだに左と右を間違えるのは筆者の責任でしょうか?
仕事ができない無能なのは筆者の責任なのでしょうか?
・・・あれ?もしかして筆者の責任ですか?
そうであるともいえるし、そうでないともいえます。
はっきりしているのは、責任があろうがなかろうが、事実は変わらないということです。
筆者が今まで道徳だとおもっていたことは、勝手に誰かの都合を内面化していただけなのかもしれません。
この年になってしまえば、筆者が悪いことをしても誰も叱ってくれません。
当たり前ですが、筆者が生きようが死のうが、世の中にとってはどうでもいいからです。
そんなことを考えながら、自らの犯した殺生に5秒くらい思いをはせました。
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