ハイドロポンプが当たらない

底辺リタイアを目指すブログです。

資本主義を乗り越えたい

 資本主義とはなんだろうか。

学生時代に読んだ経済学の本には、人間の生存に必要な生産・交換・消費活動を、主に貨幣を媒介として行う経済体制といったことが書いてあったような気がする。

あるいは、現在ほぼ消滅したロシアンな経済学を学ぶ人たちは、資本主義のことを資本の蓄積を目的とした運動ととらえ、その特徴を私有財産の許可、株式会社による市場内での競争としていた。

現代日本の経済性は資本主義とされている。確かに今の日本では私有財産が認められ、株式会社が市場で生き残るべく競争を行い、子供と高齢者を除く人間の大半は労働者として賃金を得ている。

資本主義社会に所属する人間は、大きく資本家と労働者の二つのグループに分かれる。時代遅れな分類だが、今の日本でも資本家と労働者の間には明確な差がある。

資本家とは、一言で言えば生産手段すなわち資本を有する人間のことだ。会社の社長や役員が当てはまる。

労働者は生産手段を持たず、生計を労働による所得に頼っている。

自営業者の数は近年減少の一途を辿っている。自営業者は定義の上では生産手段を持っているため資本家だが、大企業と比べ資本の量は少ない。資本家と労働者の間に、農業や自営業者からなる中間階級・企業の管理職や専門家からなる「新中間階級」があると見ることもできる。

労働者が資本家になることができるかは、難しい問題だ。現代日本では、建前上だれでも努力と才能により成功することができることになっているが、現実は社長になる最も優れた方法は社長の家に生まれることだ。サラリーマンが独立して自営業者になったり、自営業者が規模を拡大して大企業になることはますます難しくなっている。

労働市場では、労働者と資本家が対等な立場で労働力という商品を売買することになっている。

しかし、現実には労働市場において労働者と資本家は対等な存在ではない。労働者は働いて賃金を得なければ、生きていくことはできない。非正規雇用の拡大や外国人労働者の増加を背景に、労働市場は供給過多の状態にある。加えて雇用の流動性が低い社会では、一度就職してから転職すれば待遇が低下する。

労働者の賃金は、一般に労働者が生活し、子供を育てるのに必要十分な額に収斂していくというのが、かつて幅をきかせていたマルクス経済額の仮説だ。かれらはこれを「労働力の再生産費用」と呼んだ。労働力の再生産には、衣食住の他、休みの日に行く旅行などのレジャー、老後の備え、いざというときのための保険、そして子供の教育費も含まれる。必要十分な費用ということは、裏を返せば十分ではあるものの、余裕はないと言うことだ。年収が300万円であろうと1000万円であろうと、生活費を支払い、家と車のローンを支払い、子供を自分と同じ階級につけるための教育費を支払い、老後も今の生活水準を維持するための蓄えをすれば、もう余分に残っているお金はない。お金を稼ぐためには働かなければならず、資産を蓄えて資本家に成り上がることはできない。

サラリーマンの生涯賃金は2~3億円といわれる。ここから30%近い税金と社会保障費、基礎生活費、人生の三大支出(家・教育・保険)、車、老後の蓄えを捻出すると、残りは年に一度の海外旅行に使う分くらいしか残らない。正規雇用ではない働き方、フリーターや個人事業主では、経済的な理由から家・子育て・車等かつては当たり前だった買い物をあきらめる世帯も増えると思われる。

労働者が資本家と対等な立場になるためには、少なくとも労働しない自由を得る必要がある。具体的には資本を蓄積し、自らも資本家になることによって初めて、資本家と対等な交渉を行うことができる。

アメリカの比較的裕福な若者の間で流行し、日本でも盛り上がりを見せているFIRE(financial independence and retirement early)MOVEMENTは、労働と倹約によって余裕資金を確保し、その資産を運用することで資本を蓄積し、30代や40代と行った若いうちに労働から自由になろうとする活動のことだ。底辺リタイアと相性のいい考えというか、底辺リタイアの上位概念といえる。

労働者が資産運用により労働の必要から解放されたときこそ、資本家と労働者を分けていた壁が崩れる。資本主義が生み出す苦しみは、理想社会を夢見たソヴィエト権力による粛正ではなく、資本主義社会内部の「はたらきたくない」という思いによって克服されるだろう。